大きな永遠に続くとも思われる水の流れ。
その音を聞きながら、目を伏せた。
それはやはり、当然の如く視界は真っ黒。
名を呼ばれ、目を開けた。


そこにあったのは、やはり黒。


蒼や赤を飲み込み、すべてを侵食してしまった。
その水に入ってみると、やはり冷たい水が足先を襲う。
それを誤魔化すように砂を蹴ってみるけれど、足の感覚はなくなっていくばかり。


しかし、それさえも打ち消すような熱さ。
自分の中で何かが、再構築されていくのを、感じた。












繋いだ手の











目がひりひりと痛み、喉が酷く渇く。
それに加え、一向に下がる気配のない、寧ろ上がっている熱が体中を襲っていた。
最悪だ。
先ほどから自分の中で生まれるのはその一言のみ。
この体調の悪さのことではない。
今後ろを歩く橙の趣味の悪い仮面をした男に、今までずっと出なかった、これからも出るはずのなかった涙を見せてしまったことがだ。
平気なはずだった。
たった一つの人間の命が終わっただけのこと。
それが、少しだけ他の人間と向ける感情が違っただけのこと。


『デイダラ、』


しかし、あの声も聞けない。もうこの水溜りの名を教えてもらえない。呆れたような顔も見れない。
嗚呼、そうか。旦那は死んだんだ。
流れ込んだ記憶がオイラにそれを確信させたとき、何かがはじけてしまった。


自己嫌悪に陥りながら、溜息を吐く。
せめて一人のときに…
そう考え、すぐにその考えを打ち消した。
恐らく、あのように泣いたのは、


(こいつの、せいだ…)


クソジジイ。
そう悪態をついて、ゆっくりと歩いていた足を速めた。
すると、後ろからついてくる足音も早くなる。
脱ぎ捨てた履物はそのままに、裸足で柔らかな砂に足跡をつけていく。
小さな足跡と大きな足跡が、もう随分長い距離、ついていた。


「デイダラさん、」
「なんだよ…」
「そろそろ帰りません?」
「うっせぇな…」
「デイダラさん、熱下がってないんでしょう?ふらふらしてますし。」
「お前は先に帰ればいいだろ、うん。」
「帰りませんよ。俺の趣味、デイダラさんのお供っすから!」
「うざ!」


水の流れの音に混じって、大声でそう叫んでやると、「酷いですよー」とかなんとか帰ってくる。
聞いたところダメージゼロ。反省なし。
また溜息を吐いた。
実際、こいつが今このような軽い態度で助かった。
そう思い、足を止める。
すると、後ろの足音も止まった。


不思議なものだ。
ついこの間まで、オイラがあの赤い髪の男を必死で追いかけていたというのに。
こうして自分が前を歩くのに、慣れる日が来るのだろうか。
このお調子者の嘘つきの男が自分の隣にいることに、違和感を感じない日が来るのだろうか。
そう考えて、自嘲気味に笑った。


「人間なんて弱いもんだな、くだらねぇ…うん…」


冷たい風が、長くなってしまった髪を揺らす。
顔にかかるのが鬱陶しくて、手でそれを押さえる。


「オイラがもっと、強ければよかったのに…」
「弱いんですか?」
「弱ぇだろ、うん。結局旦那のこと思い出してばっかりだ。女々しいったらありゃしねぇ。」


ははっと笑って、髪を掴む。
このまま先ほどのように掻き毟ってしまいたい衝動に駆られ、ギュッと握った。
それを見てか、止まっていた後ろの足音が再びした。
足音は一人分。
オイラは、動かずにトビが視界に現れるのをジッと見ていた。
腕を、掴まれる。


「知ってますか?人間の記憶は、憎しみのほうが強く残ってしまう。」
「…旦那も、いつか同じこと言ってたな…」
「だから、仕方ないことなんですよ。」


トビは少し仮面をずらし、オイラの腕を掴んでいない手の手袋を、器用に口で外した。
手袋が、砂の上に落ちる。
今度は腕を持ち替えて、逆の方も。


同じように爪化粧をした指が、異形の手を、包んだ。


「先に逝かれて、憎いんでしょう?」
「…だからオイラはずっと旦那を忘れねぇってか。」
「それは困りますって。俺、嫉妬に狂いますよ。」
「お前は何処まで本気なんだか。」
「全部本気です。嘘なんか吐きません!」
「それがもう嘘じゃねぇか、うん。バーカ。」


握られた手は、まるで大きさが違う。
こんな風にこの手を恐れずに握ったのは、二人目だ。
しかし、そんなことはどうでもよくて、ただ感じたのは、その熱だった。


「…お前、意外と手熱いんだな…」
「先輩の手が冷たいんですよ。それに俺の手は先輩の手を温めるためにありますから!」
「うざ!」
「酷いですよー」


繋いだ手の熱さ。
それを初めて感じた。
オイラがいつも握っていたのは、もっと低くて硬い手だった。
チャクラによる熱とは違う。
確かに、生きている熱。
そうか、人間とは、こんな感触なのか。
なんて、ぼんやりと思った。


不意に、握られた手を引かれる。
何を思ったのか、トビはそのまま砂の上をゆっくりと歩き始めた。
帰るわけでもなく、目的地があるわけでもなく、ただ水の流れを聞きながら、冷たい風を受けながら。


「…トビ…」


小さく呼んだけれど、返事はなかった。


視線を水のほうに移すと、そこには蒼や赤の色をなくし、黒に染まった空間。
蒼は赤に飲み込まれ、そしてやがて黒に侵食される。
そう、これは必然だったのかもしれない。


「…トビ。」


嗚呼、もしもこの男の色が黒ではなく、赤に近い橙であったのなら。
オイラは赤いままだったかもしれないのに。


意味のない『もしも』を考えながら、繋いだ手をギュッと握ってみた。
そして、もう一度トビと呼んでみると、今度は小さく返事が帰ってきた。
水の音を聞きながら、目を伏せ、すぐに開ける。
やはり見えるのは、黒のみだった。


「この水溜り、」
「水溜りじゃないですよ。」
「何て、名前だった?」
「…忘れたんですか?それとも知らないだけですか?」







かすかな記憶。あれはもう随分前のことだ。
大きな蒼い水溜りを前にして、はしゃぐオイラ。
呆れてその様子を見る旦那。


『でっけぇ水溜り!すげぇ!』
『水溜りじゃねぇよ。』
『うん?』
『お前、見たことないのか?』


冷たい水をすくいあげて、オイラの口に注ぎ込む。
塩辛い味に顔を顰めたオイラを見て、旦那は悪戯っぽく笑った。
珍しい、表情。


『この水溜りさ、』
『だから水溜りじゃねぇよ。』


くしゃくしゃと髪を撫でられ、まるで犬にでもするように髪をめちゃくちゃにされる。
その硬い手。低い温度。
オイラは、その手が、好きだった。


『じゃあ、これ何て言うんだ?』


いつも無表情で、残虐なことばっかりしてるくせに、このときは珍しく笑っていた。
その顔が、好きだった。


『これは、』


そうだ。オイラは旦那のこと好きだったんだ。
ずっとガキのころからそばにいてくれたんだもんなぁ。






「忘れた。」


だから、これは自分なりの別れ。
好意は憎しみに変わり、そして好意により感情を再構築するための。
記憶は戻っている。でも忘れてしまった。
否、忘れた、ふりをした。







やわらかな砂を、裸足で歩きながら冷たい風を感じる。
大きな水の流れは、大きな音を作り出し、鼓膜を刺激。
心地よいその響きを繰り返し、繰り返し。永遠に繰り返すのだろう。


「海ですよ。」


不意に、冷たい風と心地よい波の音に乗って、そんな言葉。
先輩知らないんですか?歌まであるのに。
おどけた様子でそう言って、トビの口から出るのは間抜けな旋律。
波が作り出す壮大な響きとは酷く不釣合いだ。


「お前、音痴だな、うん。」


そう言って、顔をくしゃくしゃにして、笑った。


相変わらず水は冷たく、風は頬を襲う。
赤の残像が、目の裏でぼんやりと浮かんだ。
それでも、繋いだ手の熱さから逃げられないと、思い知らされた。









ぶくぶく、
泡を立てながら、黒い海に沈んでいく。


ぶくぶく、
大きな海は、優しく残酷にこの体を包み、蝕んでいく。


ぶくぶく、
そしていつか、この体も泡へと変えて、その海に溶けていくのだ!!



ぶくぶく、ぶくぶく












(終)