なくしてしまった。
どこかへ落としたのだろうか。それともどこかへ置き忘れたのだろうか。
それとも、誰かに、奪われたのだろうか。
なくしたものさえ、何か分からない。
失いたくないと叫んでみても、思い出せない。
この手が掴もうとしたものは、一体何だったのだろうか。
嗚呼、分からない。
ただ分かるのは、自分が、飲み込まれる音のみ。
飲み込む音
ふわふわと、体が浮いている感覚。
コントロールがきかず、先ほどから何度も崩れ落ちそうになった。
しかし、その心配も目的地に着いたことでなくなる。
作品が急降下させると、心臓が抜けるような感覚に陥った。それも慣れているため気にしない。
荒い息を抑え、崩れ落ちるように作り出した作品から降りた。
情けないことに着地もままならず、その場に倒れこんだ。
「…っ…ちくしょ…なさけね…な…」
小さく呟いて、呼吸を繰り返す。
いつもの倍の速度で行われる呼吸は、自分の弱さを物語っているようで、その息の音でさえ煩わしい。
やはり昨日術を完成させたばかりで起爆粘土を生み出すのは、無理があった。
ましてや、この腕や術に関する拒否反応が出ている状態では尚更だ。
ギリッと歯を噛み締めると、口の中に入った砂がジャリと音が立てた。
うつ伏せだった体を、横に向ける。
体に痛みはない。何故なら倒れている場所は、石や岩の上ではなく、柔らかい砂の上だったからだ。
体勢を変えたことにより、視界が90度回転する。
そこで、目に映ったのは、
「水…たまり…」
耳につくのは、風の音でも虫の音でも、ましてや煩い扉を開ける音でもない。
間抜けな擬音であらわすのなら、ざぶーん、なんていう幼稚じみたものになってしまう。
蒼い、蒼すぎる水が、こちらに来てはあちらへ逃げていく。
永遠に続くようなその大きな水溜りの、大きな水の流れが作り出す音。
目を伏せ、その音を耳に入れる。
『馬鹿、水溜りじゃねぇよ。』
不意に、呆れたような声が聞こえたような気がして、伏せていた目を開けた。
そして疲れ果てた体を起こす。
しかし、そこには、どこまでも続く蒼があるだけだった。
いつの間に、そんなに時間が経ったのだろうか。
暗かったはずの世界は、太陽が昇り明るくなっていた。
心地よい温度の風が、頬を撫で、髪を撫で、柔らかい砂を運ぶ。
「…だんな…」
そっと呟いて、息を吐く。
酷く、頭が痛んだ。
高熱により嫌な汗は止まらない。腕の痛みも相変わらずだ。
しかし、この頭の痛みはそういった類ではない気がした。
何故か、『旦那』のことを思い出そうとするたびに、痛くなる。
思い出すことが罪であるかのように。
ぶち破ろうとしたら、何かに手足を拘束されているような感じだ。
「だんな…」
再び目を伏せて、痛みに耐える。
大丈夫だ、痛みには強くできている。
視界は真っ黒。だが、脳裏に浮かび上がる、蒼い水溜り。
元相方を、自分は『旦那』と呼んでいた。
その旦那と一緒に、そこに立っている。
岩隠れで育ち、ほとんど里の外にも出なかったオイラはその正体が分からずに、しかしその大きさにただただはしゃぐ。
大きな水溜り。一体どれだけの雨が降ったらこんなに大きなものができるんだ。
そんな馬鹿なことを言っていた自分に、旦那は呆れた声で馬鹿と言った。
『水溜りじゃねぇよ。』
『うん?』
『お前、見たことねぇのか?』
こんなもんが珍しいのか。ある意味お得な奴だな。
そんなことを馬鹿にしたように言って、旦那はフンと鼻を鳴らした。
穏やかに流れる風は、その髪を揺らす。
そうだ、思い出した。
『旦那』は、赤い髪を持っていた。
(頭、いてぇ…)
『旦那、』
『あ?』
『この水溜りさ、』
『だから水溜りじゃねぇよ。』
赤い髪の男は振り返り、そしてオイラの髪をくしゃくしゃと撫でた。
オイラは、この手が、好きだった。
あれ、
(頭…)
『じゃあ、これ何て言うんだ?』
『これは、』
(いてぇ…)
『 』
その先の旦那の言葉は、思い出せなかった。
そして、今振り返っている男の顔も、何もかも、靄がかかり、思い出せなかった。
水がこちらに来てはまた逃げる音を聞き、目を開けた。
やはりそこには、一面に蒼が広がっているだけだった。
強烈な、赤は見えない。
『おい、いつまで遊んでるつもりだ…』
しかし、知っている。思い出せることもある。
この水溜りの行く末を。
蒼はやがて赤に飲み込まれる。
一面に広がっていた蒼は、まるで燃えているように、赤に染まるのだ。
『オイラ、こんなの初めて見た、うん。ずっと岩隠れに閉じ込められたからな。』
それを、あの『旦那』の隣で見た。
心地よい体温。決して温かくはないその冷たく硬い手が、自分の髪を撫でる。
生み出される感情と、与えられる感情。
要らないものだと叫ぶ自分がいるというのに、それを受け入れることは甘美であり、オイラのその誘惑に乗った。
『デイダラ、』
虚構だらけの自分を『旦那』は壊した。
蒼は、赤に染まる。
目の前で、それを見た。
そして、自分もそれと同じ道を辿ったのだ。
蒼が、赤に飲み込まれる音がした。
嗚呼、しかし、
「……いてぇ…」
腕や頭が痛んで仕方ない。
熱が上がってきているらしい、寒く暑いようなわけの分からない感覚に陥った。
息が苦しく、荒い呼吸を繰り返す。
水が押し寄せ、そして引く。
大きな水溜りの、大きな動き。
それを聞きながら、目をギュッと瞑った。
「…っくそ…!」
額あてもしていない、髪も結んでいない頭を抱えた。
両手で押さえ、痛みに耐える。
先ほどからどんどん痛くなってきている。
まるで思い出すなと誰かに言われているように。
否、実際に言われているのだ。
思い出すな。もうそのことは忘れろ。
そう誰かが言っている。
では、誰が?
そう思ったとき、一つのパズルピースがどこかに当てはまったように、何かが分かった。
「は…っ…はは…あははは!!」
目を開け、無理やり口から笑みを零した。
何も愉快ではない。しかし、笑わずにはいられなかった。
そうすることしかできなかった。
そうすることでしか、あの橙、否、黒い男に飲み込まれてしまいそうだった。
『デイダラさん、俺の目、見てくださいね。』
そうだ、思い出した。
この耐え難い頭の痛みを代償に、取り戻した。
いつも何かを取り戻すには、耐え難い代償を渡すことになる。しかし、この程度ならば喜んで差し出そう。
そう、あの記憶を、
『全部、消してやろう。』
「はは…!あの、クソ仮面野郎…っ…」
手を伸ばしても、つかめない。
その顔を思い出せない。
この水溜りの名前を教えてもらったはずなのに、思い出せない。
彼の言葉も声も顔も名前も、何も思い出せない。
そうしたのは、あの黒だ。
「ちくしょ…クソ、マダラ…!!」
あまりの痛さに、髪を掻き毟った。
金の長いそれが、砂の上に落ちる。
ぶちぶちと切れて行く様子は、まるで今の自分の心情を表しているよう。
繋がらない記憶たち。
何を何処で何時誰が如何した
それが、ぶちぶちと切れて繋がらないのだ。
「俺の記憶を…返せ…」
まるで泣きそうな声が耳についた。
滑稽なことに、それが自分の声だと気づくのに、時間がかかった。
そうだ、もう一つ思い出したことがある。
この大きな水溜りは、蒼から赤に染まる。
その後、どうなったかを、思い出した。
『怖いのか?』
『怖くねぇよ、うん!』
『そうかよ。』
ああ言ったけれど、本当は少し恐怖を感じていた。
赤に染まったそれは、やがて、黒に飲み込まれていく様子を。
あたたかな赤の記憶を、どす黒いものが覆っていき、飲み込む音がした。