痛みは消えぬ。
それを悟ったとき、どれほどの絶望が人という生き物に襲ってくるだろうか。
ましてや、身体的なそれとは別に、精神的な痛みがあったとしたら。
しかし、自分にはその気持ちは分からぬ。
何故なら己れは普通の人間ではない。忍という、人間の感情を捨てたものなのだ。
冷たい水をすくい、目を伏せた。
嗚呼、冷たい。
しかしそれは特に新たな『痛み』にはならぬ。
この体は、冷たいものを、求めていた。
嗚呼、冷たいものに包まれるためならば、この水に身を沈め、ぶくぶくと消えてしまっても構わぬ。
冷たい水
「っ…」
真っ暗な闇に、自分の間抜けな険しい声が響いた。
静寂を守っていた空間は、それにより、パリンと音を立てて崩れていったようだ。
今までは気にならなかった虫の音や、時計の音が妙に耳に入るようになる。
「…い…」
光がないため黒い天井を、ぼんやりと見ながら一文字だけ口から出す。
誰も聞いていないというのに、何故か言うのを躊躇いため息を吐いた。
かぶっていた布団の下で片手を移動させ、もう片方に触れる。
そこには、ざらざらとした感触。腕に白い紐が巻かれていると知っている。
目を伏せ、強い力でその腕を握った。
そのことが原因ではない焼けるような痛みが、先ほどから走っていた。
「い…て…っ」
腕を千切られてから幾分か。
少々値は張ったが、この腕がなければ戦うことも芸術を作り出すこともできない。
そこで角都に腕を治療(と呼べるかは不明だが)を施されたのが、2日前。
潰された右腕は、ゼツが何処からか調達してきた腕を代用した。聞けば、それはリーダーの命令らしい。
そこで、再び手に口を作るための術を使ったのが昨日。
腕も動く。術も成功し、口はできた。
しかし、その代償に支払ったのは、激しい痛みと下がらない高熱だった。
ぼんやりと黒い天井を見つめ、まるで自分で腕を潰そうとしているかのように強く腕を握る。
気休め程度にしかならないことは分かっているが。
(つーか…痛えって、馬鹿みてぇ…)
耳に響く、虫の音や時計の音がうるさい。
(所詮人間かよ…オイラも腑抜けたもんだ…うん…)
しかし、次の瞬間、その虫の音や時計の音よりもうるさい、否、煩わしい音が耳に響いた。
静かに、まるで寝ている人間を気遣うように、扉が開いた音だ。
カチャリとドアノブをまわした音の後、ギッと徐々に開けていく音。
それが妙にゆっくりと聞こえた。
「デイダラさん?もしかして起きてます?」
そしてその次には、いつもの茶化すような声ではなく、低い落ち着いた声が聞こえる。
しかし、そのような声色でも煩わしい。
軽く舌打ちをして、寝転がっていた上半身を起こした。
「てめぇのせいで起きたぜ、うん。」
「そうですか。すいませんね。」
「てめぇトビ…」
「まぁまぁ、そろそろ痛み止めと解熱剤の効果、切れたんじゃないかと思いまして。」
オイラが起きていると分かっても、トビは静かな様子で行動する。
音もなく歩き、音もなく扉を閉め、音もなく近づいた。
ベッド際に長身の男が立ち、見下げてくる。
本人にその気がなくてもなんとなく苛立つ。
また舌打ちをして、立ち上がろうとしたが、頭がクラと左右にゆれる感覚に眉を顰め、やめた。
「駄目ですよ、寝てないと。」
「だから、てめぇが起こしたんだろうが…」
「薬、今用意しますね。」
「クソトビ、聞け、うん…」
肩に手を置かれ、無理やり上半身を倒される。
いつもだったら抵抗するが、生憎今はそのような余裕はない。
そんな自分に内心舌打ちをして、また黒い天井を見上げた。
そばでは、トビが薬を出し、グラスに水を注いでいる音。
嗚呼、煩い。
ぱちぱちと生理的行動を繰り返す。
瞬きというそれをしても、ただ単に黒い天井と、瞼の裏の黒が映るだけで面白みも何もない。
そんな馬鹿なことを考え、目を伏せた。
耳に障るのは、カチャカチャという音。
グラスに液体が注がれる音。
嗚呼、煩い。
またそう思い、気づかれぬようにそっと息を吐いた。
「先輩、用意できましたよ。」
不意にその言葉が聞こえ、目を開けた。
渦巻く橙の趣味の悪い仮面が、相変わらずこちらを見下ろしていた。
痛む腕を隠し、ベッドに手をつき体を起こす。
「口、開けてくださいね。」
黙って口を小さく開ける。
すると、黒い手袋をした指がその口に入ってきて、幾分か大きく広げられた。
何様のつもりだ、こいつ。
そう思って、目の前の仮面を睨むが、トビは何も言わない。
文句を言う前に、苦い薬を押し込まれ、グラスに入った水を、押し込まれた。
驚くほど、冷たい。
苦い味だとか、息苦しさだとか、そんなものよりもまずそう感じた。
キーンと頭に響くような冷たさ。
無理やり押し込まれる、冷たい水。
何かが、頭の中を通り抜けたような気がした。
(なんだ…?)
『冷てぇ…』
聞こえるのは自分の不満そうな声。
しかし、それを誰に言っているのか、何故そのような声を出しているのか、まったく思い出せない。
「先輩?」
静寂の中、ベッドの脇に立っていた男の声が響く。
何も反応しないオイラを訝しげに思い、声をかけてきたのだろう。
思い出せない何かが気持ち悪い。
しかし、橙の仮面が何かを言いたげにこちらを向いてくるものだから、首を振って気持ち悪さを振り払った。
恐らくずっと昔に、それこそ思い出せないほど昔に何かあったのだろう。そう思い込むことにして。
「どうしたんですか?」
「…なんでもねぇよ、うん。」
「そうですか。」
「ああ。」
「それなら、もう少し休んでくださいね。俺一人で任務こなすの、結構きついんですから。」
「阿呆。てめぇは人に頼りすぎだ。」
「まぁまぁ。とにかく、薬も利いてくるでしょうし、寝てくださいね。」
スッと黒い指が伸びてきて、口元を拭われる。
仮面で表情は見えない。
奴がどんな顔をしているかは分からないが、どうでもいい。興味がない。
そう思い、トビから目を逸らし再び硬いベッドに寝転がった。
「デイダラさん、」
目を伏せる。
「おやすみなさい。」
何故だろうか。
そう言われた瞬間、可笑しいほど眠気が襲ってきて、すぐに闇に包まれた。
せめてトビが出て行った後
そう思っても、自分の意思に反して、意識は切り離された。
『おい、ガキ。』
声が聞こえた。
声のしたほうを見ると、手が伸びてきた。
ああ、これは夢ではなく記憶だ。
暁という集団に入ったばかりのころの、初めて相方と共に出た長期任務のときのもの。
『こんなもんが珍しいのか?』
『オイラこんなの初めて見た!』
『うるせぇな、クソガキ…』
そのときに、初めて髪を撫でられた。
乱暴な言葉とは裏腹に、髪を撫でる手は、驚くほど優しかったことを覚えている。
その手は、幾多もの人間を殺めてきたものだ。
犯罪者の手。
オイラだって、こんな優しい手をそれまで求めたことはなかった。
ただ、この手だけは、好きだった。
『飲んでみるか?』
『へ…?』
『口、開けろ。』
その細い指は、髪から移動してオイラの口を開けた。
そして、次の瞬間には、冷たい水を流し込んだのだ。
(そうか、さっき感じたのは、このときの記憶だ。)
そう思い、その記憶を更に呼び起こそうとする。
しかし、それは叶わなかった。
『冷てぇ…』
『そうか。』
流し込まれた冷たい水。
それは、どんな味だった?
今話しているのは、どんな場所だった?
あれ、目の前にいるのは、誰だった?
『 』
自分の口が目の前の奴の名前を呼ぶけれど、言葉は風に流されて、聞こえなかった。
記憶がはっきりしない。
確かにこれは自分の中にあるものだというのに、何故か思い出せない。
今いる場所は?目の前にいる男の名前は?彼の言葉は?
思い出せない。
ただ分かるのは、
『おい、』
目の前の青い水。
そう、大きな、水溜り。
『何笑ってんだ、ガキ。』
今背を向けようとしているこの男のことは分からない。
嫌だと、自分の中のどこかが叫んだ。
嫌だ、行くなよ、ちゃんと思い出すから
どこ、どこ
どこにいる!?
『デイダラ、』
視界に広がった、赤に、染まる、水溜り
「あ…」
伸ばした手が、空を切っていた。
視界に広がるのは、黒い天井。
自分の口からは、荒い息が吐かれたり、吸われたりしている。
嫌な汗を大量にかいていることが分かった。
しかし、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。
『デイダラ、』
呼ばれている。
(行かねぇと…)
今は、その思いだけで、頭がいっぱいだった。
痛む腕を押さえ、立ち上がった。
椅子にかけてあった黒い暁のコートを乱暴に掴み羽織る。
ぴりぴりとした痛みが常に腕に走り、頭もふらふらとする。
そんな自分を叱咤し、窓を開けた。
ひんやりとした空気が頬を刺し、汗や下がらない熱を襲う。
否、そんなことはどうでもいい。興味はない。
「…だ…」
呼ばれている、行かなければいけない。
「…っ…だん、な…」
赤に染まる水溜りを目指して、走り出した。